「楚囚之詩」のコピーを、自由民権資料館で見つけた。

1月15日の朝、親戚の石阪家の法事に出席する前に、町田市立自由民権資料館を訪れた。

以前、小田急線鶴川駅から野津田の本家まで、駅からタクシーで行き、渋滞に巻き込まれて1時間以上もかかった経験から、今回は、早めに家を出たのだ。鶴川からバスに乗って、予定より1時間も前に着きそうなので、一つ手前の袋橋で降りて、白い瀟洒な建物の資料館に向かった。霜の降りた道を伝って館内に入る。休日の朝で入館者は誰もいず、私が入ると、部屋の電灯をつけてくれた。

 資料館のパンフレットによると、ここは野津田の生んだ民権家・村野常右衛門が、1883年(明治16)に私財をさいて、凌霜館を建てた場所で、村野は、ここに多くの青年子弟を集め、厳しい霜を凌ぐという名の通り、剣術を通して身体と精神を鍛え、同時に自由民権運動思想の学習を盛んに行い、その中から続々と若い活動家が育ち、ここを拠点に民権思想が展開されたという。その跡地に、この自由民権資料館ができたのだ。

 自由民権運動についても、パンフレットの説明を借りる。

   明治の前期、全国各地の都市や草深い農村で、自由と権利を求めた運動が盛り上がり、薩長を中心とした明治藩閥政府に対して、国会開設や憲法制定、あるいは地租の軽減や自治の要求など民主主義の実現を求めた運動。三多摩を含む神奈川県下でも、西の土佐とならぶ活発な動きがあり、なかでも町田地域は、石阪昌孝や村野常右衛門・青木正太郎など有力な指導者を輩出し、結社と呼ばれる組織を作って、政治学習運動が燎原の火のように燃え上がったのです。その後、民権運動は弾圧されますが、彼らが刻んだ歴史は、日本近代史の中でも光っています。

色川大吉氏の著書「明治の文化」(岩波書店)では、草の根からの文化創造としていきなり、この村野常右衛門の生活描写から始まるのだ。

 村野常右衛門がまだ磯吉とよばれていたころ、彼の生家野津田村は、少年にとっては楽しみにあふれて遊戯の世界であった、一月元旦、年が明けると磯吉たちは、新しい着物を着て年始にあるく。二日には、書初め、七日には七草をお雑煮にして食べ、なずなの水でつめを切ったりしたという。(中略) それから、一月一五日のあずきがゆ、二〇日のえびす講、二八日のお不動様と、子供たちには切れ目なしに楽しみがつづいた。

このように、こと細かに一年の描写が続き、

十二月一日は、この地方では「川びたり」といい伝えられ、この日は大水が出るからと誰も家から出なかった。とくに磯吉の家は、川岸にあり、鶴見川の氾濫のたびに、床下やあるときは床上まで水があふれた。その大水のときなど、村人が総出で、水車小屋を守るあわただしさが磯吉たちには、かえっておもしろかった。 

とある。私の父鶴吉も、同じ野津田村の出身で、年代は50年あとになるが、基本的な生活のパターンは、同じだったと思う。父の出征中の日記に、鶴見川の氾濫を心配した文章が出ているし、「水車」と呼ばれた隣の伯父の家には、文字通り水車があった。

 明治5年小笠原東陽という人が、東海道、藤沢の宿に近い鳥羽の村に寺子屋耕余塾を開いたが、この旧姫路藩士の一浪人は、授業のたびに生徒を相模湾の浜につれてゆき、福沢の「世界国尽」をフシをつけて大海にむかって合唱させたという。この東陽先生の寺子屋から、やがて、自由民権運動の中堅リーダーがあまた輩出し、この村野常右衛門もそのうちの一人であった。「明治の文化」には、こういった民権運動のリーダーたちの群像と、困民党の三千とも五千とも一万とも云われた農民たちの意識の相違を鮮明にしている。やがて、自由民権運動が弾圧され、日露戦争以後は、天皇制国家権力のもとに帝国主義の道にはいりこんでいく様子が分析されている。

 資料館では、もう一人の指導者、石阪昌孝について紹介している。

  1841(天保12)から1907(明治40)年、野津田村出身、町田をはじめ神奈川県下の最高指導者。区長、戸長や初代県会議長などを歴任。融貫社の結成や自由党入党・国会の早期解説を求める建白書など、運動の中核となって活躍。また小野郷学の開設にかかり、教育活動にも力を入れ、若い活動家に大きな影響を与えた。のち衆議院議員、群馬県知事。美那子と公歴の父。

「しょうこうさん」と親しまれて呼ばれたが、「井戸塀」政治家として身代は、全て失ったのだ。

さらに、この資料館には北村透谷の「楚囚之詩」のコピーがあった。表題の「見つけた」というと、大げさだが、この本は、幻の本といわれ、現在見つかっているもので、4冊という。(3冊が、戦前の話で、現存するのはこの1冊の原本とも云われている。) 北村透谷は、明治元年、小田原で生まれ、明治18年東京専門学校を卒業している。同じ18年に大阪事件が発覚し、政治から文学へ転向せざるをえなかった。石阪昌孝の子供で石阪公歴と知り合い、公歴の紹介で姉ミナ(美那子)を知り、明治21年11月、二人は周囲の反対を押し切って結婚。式には石阪家は出席しなかったという。

 資料館をのぞいてから、民権運動の資料を漁ってみると、秩父では自由党と困民党が一体となって動いたが、武相困民党と自由党は分離雁行の関係にあったという。色川大吉氏の「困民党と自由党」(揺籃社)によると、「南多摩郡は、自由党員数においても、困民党発生件数においても、県下最高、日本有数の地域であった。」、とある。(南多摩郡は、現在、東京都だが、当時は、神奈川県)

 明治15年に横浜で生糸相場が半分にくずれ、以来三年とどまるところをしらず、翌16年になると公売催告状と共に質入証書や土地売渡証への奥書がめだって忙しくなり、その上、八王子警察署からは新築費の寄付を急げと督促がくる。郡役所までが新築するという。戸長たちが立替払いしていたが、こういった層の人々は、自分達が寄付して建った警察に留置されたりして、やがて没落して行った。

 南多摩郡谷野村の須永漣造は、多摩北部困民党や秩父困民党の敗北の状況から、即効性のある妥協的は方法を選ぶ。明治17年、自由党解党の翌月11月19日、武相困民党は、相模原の原野で事実上の結成大会を開き、政治的には、ほとんど孤立無援のなかで、悲壮な「決議書」や「申合規則」を採決し、それに基づいて横浜の名望家海老塚四部兵衛と、前横浜裁判所長で県会の知友でもある北洲社の立木兼善に仲裁人を依頼して、運動をすすめることにした。これに対して、県令たちは、この団結解体をせまった。八王子警察署長の原田警部は月初めからすでに若林高之助を中心とした、これらの困民党指導者の動静をつかんでいく。部下の木曽分署一智巡査に指令して若林等の動静を細野喜代四部(当時小川村、木曽村等四か村戸長)から詳細な困民党の内報を得ていた。明治18年1月15日困民党幹部が総検挙され、組織を壊滅させられた。

8月15日。暑い一日、妻とふたりで自由民権資料館を再訪。「楚囚之詩」のコピーを写真にとった。それから車で、民権の森を捜す。本家の裏山あたりのはずだから、だいたいの場所は分かっていたが、進入路が分らなかった。近頃できたのか、アパートの住人に、民権の森、石阪昌孝の墓と聞いても、首をかしげ「すみません。分りません。」との返事。しかしすぐ傍のあぜ道を伝っていくと、透谷、美那子の出会いの場所と書かれた自由民権の碑やさらに坂を登ると、石阪昌孝の墓があった。なるほど、これは分らない。妻が「民権の森ってこれだけの場所?」とびっくり。

 色川大吉氏は、その著書「自由民権」(岩波新書)のなかで、自由民権運動を文化革命と規定し、運動そのものを以下のように要約している。

  民権運動は明治維新の革命の課題を日本の人民がひきついたもので、この運動は人民の自由権のうち参政権(政治的自由)をもとめる「国会開設」に最大の焦点があったが、それと共に国民大多数の農民の要求である「地租の軽減」と「条約改正」の実現も重要な目標となった。

この三大要求は、近代的な立憲制の樹立、土地革命の遂行、民族の完全自立の達成を内容とする「市民革命」であることを意味していた。つまり17世紀のイギリスのクロムウェル革命や、18世紀のフランス革命、アメリカの独立戦争などと並ぶ世界史における近代ブルジョア革命の一環だったのである。

時代の先駆者をたたえた民権の森にしては、入り口も分らず、寂しい思いがし、かつ民権の指導者たちと違った困民党の人々の思いは、何処へ行ってしまったのだろうかと考えながら、車に戻った。そしてすぐそばの薬師池で一休みして、夏休みのすいた都内の道路を走って家に戻った。

(この文章は、1991年8月15日に作成。その後自由民権資料館も増築され、民権の森も整備されたようだ。私の遠縁にあたる渡辺奨氏と鶴巻孝雄氏が1997年に「石阪昌孝とその時代―豪農民権家の栄光とその悲惨の生涯」(町田ジャーナル社)を刊行した。)

 

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2006.06.12