ちょうちん殺し・投げ込み寺・蛇観音そして兎月園

ちょうちん殺し・投げ込み寺・蛇観音そして兎月園

                 

東京古書組合南部支部のメンバー十数名が街めぐりをしている。先生は羊土房さんで、もう五・六十回に及んでいるそうだ。私は、この会に三回だけ参加させていただいた。毎回結構な距離を歩くので、何とか後ろからくっついて歩くのがやっとなのだか、私にとっては大変興味深い会で、今後もできる限り参加させて頂きたいと思っている。

 

訪れたところをピンポイントで紹介させて頂く。行先は、著名な観光地というよりもどちらかというとマイナーに近い場所も多い。私は知らなかったのだが、提灯殺しのガードというのがある。新駅ができる関係で最近話題になったそうで、品川駅のそばにあり正式名称が高輪架道橋という。高さ制限が1・5メートルで上にJRの鉄道が走っている。ここを通るタクシーの提灯が壊れてしまうということからこの名前となったそうだ。このガードを海側から頭を下げて通り抜けた脇に小さな公園があった。周囲に大きなマンションが林立していたが、ここはかつて漁船が係留された場所と聞き、思い出したのだ。子供のころ、蒲田から東京方面で出かけるときに、車窓から沢山の漁船が係留され、ここからこの当時の国鉄のガードをくぐって東京湾で漁業を営んでいたのだ。懐かしい情景が思い出された。山手線の内側に、漁村(?)があったのだ。

 

2回目は、町屋駅集合だった。日本で最初の段ボール工場とか、以前は胞衣会社と言って胎盤や胎児の処理をしていたという会社の前を通り、投げ込み寺と呼ばれている浄閑寺を訪れた。投げ込み寺とは、一般的には宿場町の飯盛り女・遊女が無縁仏として埋葬された寺のことで、この浄閑寺は 安政の大地震の時に多くの吉原の遊女が投げ込まれてこう呼ばれるようになったとか。ここにある小夜衣観音は、遊郭の主人に放火の罪をかぶせられ火炙りにされた小夜衣を祭っており、明治時代角海老楼の遊技若紫は、あと5日で年季明け、晴れて所帯を持というところで、殺されてしまい、彼女だけは単独の墓となって葬られている。 生きては苦海、死しては浄閑寺と刻まれた石碑があり、さして広くもないこのお寺さんに2万5千人もの遊女が葬られたそうだ。

 

それから墨田川沿いの木母寺へ。梅若伝説で有名。梅若丸は悪人にかどわかされて京都から東国に連れてこられ、墨田川で病気になって川辺に捨てられる。里人に看病されたが亡くなってしまい、京都から駆け付けた母が、泣く泣くお堂を建てたそうだ。諸説も色々あるようだが謡曲・浄瑠璃「墨田川」で有名なんだそうで、お堂は防火のためにガラス張りのケースの中にある。平泉の中尊寺金色堂も鉄筋コンクリートの建物の中に保護されているのを思い出した。 さてここの境内で気になったのが、蛇の体に人間の頭ののっかた石像である。周囲を見回しても何にも説明書きがない。ちょっと気持ち悪い感じだが、写真を撮った。後でこれが、蛇観音と分かった。

 

私の行ってみたいところに、兎月園の跡地があった。練馬には、豊島園以外に兎月園という遊園地があったのだ。豊島園の方があとにでき、豊島園はこの兎月園を、模したそうだ。練馬区の光が丘から成増に行く途中には、急勾配のどんぶり坂がある。そのあたり一帯2万余坪に兎月園があったとか。近くの於玉が池から水をためて3000坪の人口池を作り、小舟を浮かべ、周囲には長屋門、料亭本館、大宴席(離れ)、大浴場、滝などが散在していたという。点在していた離れと本館の移動は担ぎ駕篭が利用されたとか。昔、北海道のトマム(現星野リゾート)に泊まった時、本館とやはり点在していたコーテジとの移動は車で、本館に出向きたいときには、その都度車を呼んだ記憶があるが、その原点のスタイルだ。成増農園を営んでいた花岡知爾が1923(大正12)年頃に、東武鉄道の根津嘉一郎らの支援を受けて開園したという。戦争の激化に伴い、1943年頃やむなく閉園となったそうで、練馬区発行の印刷物「夢の黄金郷遊園地」という本には、大正ロマンと隆盛を博した兎月園への郷愁が語られている。

 

さてそれでは自転車で行ってみようと思い立ち、ねりままちづくり情報誌「こもれび62号」を持参して,スタートは光が丘公園内の於玉が池の跡地らしきところに出向く。素人判断だが付近一帯すこし窪地のようになっており、多分そうだろうと一人で納得。そこから水路敷を通りちょっと横道にそれて、上練馬公園から、和光市の眺望を眺めて、豊渓中学校へ。ここは兎月園の広場や小動物園の跡地だ。そこから下って付近の住宅街を行ったり来たり。このあたりが兎月園の中心部だろう。兎月園通り商店街の中で兎月園まんじゅうを売っていた。川越街道に出そうになったので引き返して、出世稲荷神社で兎月園にあったという狛犬を見た。結構大きな狛犬で移転の際に苦労したのか、石がつぎはぎだらけの狛犬であった。さらに妙安寺という徳川幕府ともゆかりのあったという大きなお寺さんを見学。兎月園はもともとこの妙安寺の寺領を借用して、成増農園を開園したのが始まりだ。それから旭町はんの木緑地へ。 この付近には、花岡知爾の兄、花岡和雄が花岡学院を開設。広大な敷地に校舎、体育館、プールなどがあったとか。気が付いたら、光が丘公園に戻っていた。

 

ブラタモリという人気番組があるが、遠くまで行かなくてもこの東京にも、つわものどもが夢のあとから、時には不条理な世界に生きた人間の怨念までが聞こえるような場所もあり、時には「君、そんな生き方をしていていいのかい」なんて言われているような場所もある。さらにまた、広大無辺な人間の所業の一端に触れてみたい。

 

 

 

 

 

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