再び父の従軍日記について

亡くなった父の戦争中の3冊の日記と写真を「北支そして満州からジャワへ ―父の従軍日記とアルバムー」と題して自費出版したのは、1988(昭和63)年発行で,もう30年以上も前のことです。そして、今回改めて父の従軍日記を読んで、またその背景を再度調べてゆくうちに私にとっては、新たな発見が幾つかありました。

父は、2回出征。 最初は独身の時で、北支へ今でいう華北というところで、2回目が結婚して長女が生まれたすぐ後に、満州から南方のジャワへ行っております。2回とも自動車部隊に所属していた兵隊でした。

 

日本は,1931(昭和6)年の満州事変で日本の傀儡国家・満州国を作り、その後、1937(昭和12)年77日に盧溝橋事件が起こり、現地では停戦協定が結ばれたのですが、政府が7000名の兵士を派遣し、中国側も国共合作で徹底抗戦を呼びかけ、華北の戦闘から全面戦争に拡大していったのです。戦線不拡大という参謀本部の方針にもかかわらず、現地では、味方同士の先陣争いで戦場がどんどん拡大して行きました。盧溝橋事件の時は、まさかアメリカと戦争をすることになるとは誰も考えていなかったのでしょうが、太平洋戦争に至る15年戦争となった訳です。

 

私の父の第1回の出征は昭和12年の盧溝橋事件のすぐ後で、この1回目の時の従軍日記はとぎれとぎれですが、戦闘中に死亡した仲間の位牌を書いていたり、戦闘中に援護に来た歩兵部隊全滅とも記るされていました。

「残骸となったエンジンの数を数えていく 途中より牛及騾馬ノ懲役に変更シ牛二馬二頭得」という表現がありましたが、部隊によっては、この懲役がしかるべき対価で物を買うことから、さらには略奪、強姦、そして証拠隠滅のため放火などの行為もあったようです。

 

 

南京事件では30万にもの人が殺されたとか、日本軍の婦女暴行などが国民政府側から検宣され日本は、世界中の非難を浴びた結果、軍隊に慰安所が設けられ、慰安婦が同行している様子も日記に記されております。現在では、30万人大逆殺というのはあり得ないというのがほとんどの見方です。曽根一夫著「私記南京虐殺」によると、20歳をこえたばかりの若い一人の兵士は、上海の初陣ではブルブル震えていた臆病者だったが、古兵の叱咤と戦友との競り合いですぐに一人前の勇士に成長し、ついでに強姦・殺人の常習者となる。しかし戦闘が終わって気持ちが落ち着けば、街角の子供に菓子を与える「やさしい兵隊さん」に早変わりするのだ。

とも記されていました。

 

二回目は満州の石門子というところで127日間生活をしていますが、日記にたった一行「戦陣訓」の講義ありと書かれたその背景には,南京事件の国際反響の影響があったようです。

1941(昭和16)年128日の宣戦布告で満州から南方に移動となりました。

31日のジャワ敵前上陸前日の日記には

  最初ノ大キナ空爆ヲ受ケ強力ナル威力ノ爆弾ニ見舞乍ラ 昨晩ハ十日月位ノ良イ月夜ヲ眺メ乍ラ故郷ヲ偲ブ時 急ニ遺言状マデ稿メタクナル ソレデ母上ノ事ヲ子供ノ事、妻、将来等今ニナッテ色々ト心配ス

との記載があります。ジャワ島上陸後は、再び満州に戻りますがそこで肺結核となり、日本に帰還となります。満州に戻った仲間は、終戦でシベリヤにつれていからそこで亡くなった仲間いたようです。父は病気になったおかげで日本に帰れたのですが、例えば南方方面のいろいろな戦争体験の本、大岡昇平の「レイテ戦記」、高木俊明の「ルソン戦記」などを読むと、「自活自戦 永久交戦] つまり食料は自分で調達ということで「山中では食べるものもなく飢えで ふらふらになりながら、アメリカ軍との 壮絶な戦いののちに全滅」との 記述が繰り返されております。

 

 今改憲問題がクローズアップされていますが、故田中角栄元総理は、新人議員に、「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について論ずる必要もない。だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」 と薫陶を授けていたという。(丹羽宇一郎著「戦争の大問題」東洋経済新報社) 今、私たちは、この戦争という問題に、決して無関心であってはならないのだ。